東莱邑城と東莱市場

3/24(日)釜山、午後の目的は東莱邑城と東莱市場。

12:40梵魚寺駅から1号線で明倫駅へ、そこからタクシーで東莱邑城址と考えていたが、タクシーが見つからず、2番出口から歩いて城址へ向かう。

途中、東莱郷校を見学、朝鮮時代の公立中等学校の役割をした教育機関。


あちこち迷いながら歴史館に到着、担当のおじさんから説明を受ける。




東莱邑城は1592年の「文禄・慶長の役」の際には、日本軍の標的となり、東莱府使の宋象賢(ソン・サンヒョン)を中心に軍・官・民が一体となり激しい闘いを繰り広げた山城。


以下、ネット情報。

 4月13日の日本軍襲来の報に接して、東萊府使の宋象賢は城邑の軍民を急いで集めると共に、梁山郡守趙英珪らに周辺軍民の集結を命じた。

  慶尚左道の指揮官である慶尚左兵使(兵馬節度使)李玨は、北の兵営城(蔚山)から東萊城に入城したが、釜山鎮陥落を知って顔面蒼白となり、逃げだそうとしたので、宋象賢は押し留めた。しかし李玨は「大将は自らの生命を危険にさらす訳にはいかない。府使が城を守れ。私は戦場から離れて指揮を執る」と言って、夜にわずかな手勢を連れて城を抜けだし、10kmほど引き返した蘇山駅で宿営した。

 釜山で一晩休息した後、日本軍の一番隊の大部分は、14日午前6時頃には釜山を出発して、2時間後には東萊に到着した。間もなく、日本軍は城に接近して、五重に包囲し、近くの広場では城への突撃部隊も待機した。宋象賢は南門楼の上の階に陣取って全軍を指揮し、朝鮮の伝統に則り大太鼓を打ち鳴らして兵士らを鼓舞した。

 小西行長は前回のいくさの前と同様、明への通過を許すため降伏するように求め「戦わば即ち戦え、戦わざれば即ち道を假(か)せ」と書いた木札を投じた。朝鮮側は今度は無視せず、宋象賢は木札を投げ返して「死ぬは易く、道を假すは難し」と伝えて、要求を拒絶した。

 日本軍は三度包囲攻撃したが、宋象賢は半日の間ずっと都督を続けてよく防いだ。そこで小西行長は4月15日明け方、自ら軍を率いて東萊の攻撃を指揮することにした。このとき、敵将を生け捕りにするよう命令していた。 

 日本軍は、山の手から侵入を試みた。城壁に取り付いて梯子をかけて登ろうとし、朝鮮軍は弓矢や屋根瓦を投げるなどして応戦した。東萊城にはすでに釜山鎮の戦いにおいて日本軍が火縄銃を使ったという情報が伝わっており、朝鮮軍は長い板の防弾盾を大量に作ったが、日本の火縄銃に対しては役に立たなかった。日本軍は腰につけていた幟を長い棹に結びつけ、片手で高く掲げて朝鮮軍の狙いを狂わせ、城内に侵入することに成功した。

 雪崩をうって侵入する日本軍に、代将宋鳳寿・梁山郡守趙英珪・東萊教授盧蓋邦・助防将洪允寛など、朝鮮側諸将は次々に討死した。宋象賢は敗北を覚り、朝服姿になって楼閣に上って端坐して動かなかった。しかし日本兵が生け捕りにしようと囲んだので、尖った靴で蹴って抵抗して刺された。落城の際、宋象賢は扇に「孤城月暈り大鎮救わず 君臣の義重く父子の恩軽し」と辞世の句を書いて、家奴にこれを父に届けるように言い、息絶えた。城内の制圧は2時間ほどで終わった。 


「白い韓服を着た人が宋象賢」とおじさんが教えてくれた。


 朝鮮軍は崩壊して潰走した。東萊の陥落後は再び多くの軍民が殺された。宗氏家臣の柳川調信は、宋象賢と面識があり、その遺骸を見つけて憐れに思い、棺に収めて城外に葬った。小西行長と宗義智は、捕虜となっていた李彦誠(蔚山郡守)に「仮途入明」を求めるという内容の書を持たせて朝鮮国王に届けるように解放したが、李彦誠は書簡を国王に渡すことなく破棄し、咎められるのを恐れて地力で脱出したと主張した。

 釜山から逃げ出し、李玨の蘇山駅の陣に合流した朴泓は、東萊陥落の報を聞くとさらに逃走を続け、4月17日に漢城府に達して日本軍襲来を通報した。李玨は後に敵前逃亡を咎められて、朝鮮朝廷により斬首刑にされている。


 北門から上に登ると東莱北将台に到着。そこからは古墳が見られた。大きい。



古墳についてはこちら

https://www.tabikoi.com/tada10/


北門前には東莱出身の朝鮮時代の偉大な天文学者のチャンヨンシルの像と彼が発明した機器のレプリカが展示されている。


城址をあとにし、東莱市場へ向かう。Wi-Fiルーターのバッテリー切れで、Googleマップが使えなくなり、あせる。パトカーに市場の行き道を教えてもらう。道を聞くと、皆さん親切に教えてくれる。ありがたい。


以下、ネット情報。

 実はこちらの市場、釜山で最初にできた公設市場なんです。文献では朝鮮時代の1700年ごろから市場があるそうですが、実際はもっと昔からあったとも言われています。最初は釜山の海の幸を多く扱う市場だったのですが、現在の場所に移動した1937年ごろからは農産物中心の市場に変身!今では釜山っ子の間でバンチャンシジャン(おかずの市場)なんて言われていたりもします。また市場の周りには釜山の歴史に触れることができる東莱府東軒や東莱郷校、福泉博物館などの観光スポットももあるので、セットで観光するのもオススメです。


市場の中程に、朝鮮時代の役所東莱府東軒があったので見学。




朝鮮王朝時代の典型的な役所で、守令の府使が公務をしていた場所。釜山一帯は昔から国防や外交、貿易において重要な地域だったので、この東莱府東軒は他地域よりも規模が大きかったが、日本統治時代に多くの建物が撤去、移転された。朝鮮王朝時代の単一の建物としては釜山と周辺で最も規模が大きく、釜山広域市の有形文化財に指定されている。


市場から寿安駅へ、そして西面駅に向かう。

西面駅のロッテ百貨店の地下で買い物のあと、正東津ヘムルタンというお店で海鮮鍋で夕御飯。こちらもとても美味しかった。


残った汁にご飯を入れて作ってもらった〆は抜群だった。


今日はよく歩いた。26,000歩。