釜山の旅その1 西生浦倭城跡

2023年8月3日

今日の目的のメインは蔚山にある西生浦倭城跡。

その昔、加藤清正が築いた城。

釜山駅から地下鉄1号線で教大駅で東海線に乗り換え南倉へ。所要時間約70分。のんびりした電車の旅も楽しいもの。


南倉駅で降りてタクシー利用。


西生浦倭城跡入口到着。案内所でパンフレットいただく。


説明板も充実。



厳しい登りが続く。



ネットから概要 。

「西生浦倭城(ソセンポウェソン)」は、豊臣秀吉が朝鮮半島を侵略しようとして起こした「文禄・慶長の役 (韓国の呼び名は壬辰倭乱)」の際に、戦略の根拠地の確保、連絡の拠点、攻撃への防衛のために、1592年7月から1593年にかけて加藤清正の指揮により築かれた日本式の城。

標高200メートルの山頂に本丸を置き、そこから少し下った中腹に二の丸、さらに麓に三の丸が配置された。石垣の高さは6メートル、傾きは15度で城全体の形は長方形。本丸には天守閣が築かれ、将軍水という井戸があった。 


城壁が美しい。


遠く海が見える。


ネットから歴史のおさらい

「文禄、慶長の役」

明を征服しようと企てた豊臣秀吉は、明を攻めるにあたり,朝鮮に対して「日本への服従と明までの道案内」を申し入れました。

しかし朝鮮がこれを拒否したため,1592年に秀吉は朝鮮に出兵しました(文禄の役)。

日本軍は漢城(ハンソン:現在のソウル)を占領し,さらに進軍しましたが,朝鮮の水軍と明の援軍による反撃にあったため,休戦して朝鮮から引きあげました。 

その後,明と講和を結ぼうとしましたがまとまらなかったため,秀吉は1597年にふたたび大軍を朝鮮に送りました(慶長の役)。

しかしこのときも,朝鮮と明の軍が激しく抵抗し,日本軍は苦戦を強いられました。

 このような状況の中で,1598年に秀吉が病死したため,日本軍は引きあげました。 

この2度にわたる戦いで,朝鮮は大きな被害を受けました。日本にとっても多くの戦費と兵力を費やし,大名や民衆の負担も大きく,豊臣政権が没落する原因のひとつとなりました。


夏草や兵ものどもが夢の跡  松尾芭蕉



見学が終わり、案内所でタクシーを呼んでいただく。

とても親切なアガシだった。カンサハムニダ。