釜山の旅その2 金海博物館

8/4(金)

8:45釜山駅前バス1004番で金海に向かう。バスはがらがら、広くて快適。終点で下車、金海博物館に。




伽耶文化をネットでお勉強。


国内12番目の国立博物館 1998年 7月 29日、 国立金海博物館は古代国家のひとつとして知られる伽耶文化遺産を集大成するために開館された。国立金海博物館は伽耶の文化財を展示してあり、 同時に釜山・慶南地域の先史時代の文化と伽揶の成長基盤になった弁韓の文化遺産を展示している。また、伽耶の歴史は他の古代国家に比べて歴史記録が残されてなく、伽耶の実体の大部分は、発掘調査などの考古学的方法で発掘した遺跡と遺物を通じて修復したものが多い。このようなことから、国立金海博物館は他の国立博物館と違い考古学中心の専門博物館とした特色を持っている博物館になっている。






ネットから歴史のおさらい2

伽耶

3~6世紀ごろ、朝鮮半島南部に「加耶」と呼ばれる小国群がありました。東の新羅、西の百済、北の高句麗という強国に囲まれていましたが、それらの国ぐにや、海を渡った倭(日本)や南西諸島、中国などとも交流しつつ独立を保ちました。 

加耶の繁栄は、豊富な鉄のおかげでした。弁韓の時代から鉄の生産と交易によって成長し、3世紀後半には慶尚南道金海市に、「金官加耶【きんかんかや】」が登場しました。このほか「阿羅加耶【あらかや】」「大加耶【だいかや】」「小加耶【しょうかや】」など加耶の諸国も成長しました。鉄による繁栄を象徴するのが有刺利器です。

羽子板のような鉄板の周囲に装飾がついた形は、鉄鋌と呼ばれる鉄の延べ板を加工したものです。

鉄鋌は鉄の材料であるとともに、貨幣のような使い方をしたとも考えられており、王の死に際しては大量に王陵に納め、その権威を示しました。

有刺利器もまた、鉄の国の誇りを表しています。


加耶では豊富な鉄を交易のほか武器や武具(よろいやかぶと)にも利用し、周囲の強国に対抗しました。 

金官加耶は5世紀初めごろ高句麗の攻撃を受けて衰退し、代わって台頭したのが、慶尚北道高霊郡を中心とした大加耶です。

金銅の冠が王の権威を象徴しています。

冠が出土した王陵には、新羅の土器や倭の甲冑なども納められており、周辺の国ぐにとの外交交渉も盛んでした。

479年には中国の南斉王朝に単独で使者を派遣するほどでした。大加耶は新羅を通じて地中海地域のガラスを、百済を通じて南朝の青磁を、それぞれ輸入しました。 

しかし、6世紀には百済、新羅に圧迫され、532年に金官加耶が新羅に降伏、562年には大加耶も新羅軍に敗れ、加耶は滅亡しました。


加耶と倭の交流を反映して、倭には加耶などの渡来人が訪れました。福岡県の朝倉古墳群では、倭人の首長のもと、渡来人と倭人が地域社会を共同で営んださまが知られています。日常的な交流の中で、鉄の加工、須恵器の生産、かまどによる調理方法など、新技術がもたらされました。大阪府四條畷市では、日本で唯一の仔馬形埴輪がみつかっていますが、このような埴輪の存在は、馬を子どもの段階から飼育して地域社会に貢献した人がいたことを示しています。渡来人による牧場経営のはじまりです。